熊本県多良木町に遊びに行こう!
 

多良木町の太田家住宅

国指定重要文化財

田舎の地域というのは都会と比べたら歴史的な価値が非常に高いものを持っている、そう思いませんか?もちろん都会にも国が指定したものがたくさんありますが、そんな中で特に時代を超えて存在しているようなものは神社といったものではないでしょうか。ですがそのままの歴史が残っているかどうかといわれたら微妙なところでしょう。日本、その東京を含めた各地域では戦前である1900年代前半において世界大戦が開催されていた時期となっています。この時に歴史的価値として現存していた家屋や建物が全焼するという被害に見舞われることも少なくなかったはずです。そのため、純粋な意味で建物外土地度も破損した事はなく、純粋に手入れをされてそのまま現代まで残っているというものは中々ないといえるのではないでしょうか。焼け野原にまで追い詰められたその時のことを考えると、歴史を破壊されてしまったことに泣いた人は多かったでしょう。

ただ都会ではなく、地方ともいえるところで残っているものに関しては当時のまま残っているということもあります。情緒がありますよね、そう考えると時代を感じさせる貫禄というものは無機物であっても発生するものです。特に建物などはそこは確かに当時の設計士が思い描いた図面と、建物を建築するときに大工が思い入れのあるモノになればなるほどそこに抱く感情も深くなります。そういった建物などは国などから今後国として残しておかなければならない文化として登録され、保全活動に勤めることになります。今後この先、私たち日本人という文化を忘れないためにも建築物という日本伝統の芸術と、その芸術を生み出すための技術というものは今後も後世に残していかなければならないのです。

さて、大変えらそうなことを書いてみましたがそんな日本古来の伝統となっている建築物を保護するために国は時に重要な文化財として登録することで、無闇に破壊することなどを禁じることになります。ここ多良木町にも歴史的な価値が高いとして『国指定重要文化財』として登録されている、『太田家住宅』というものがあります。同名の重要文化財が広島県にも存在していますが、広島と熊本にある文化財は若干異なっているので、ご注意ください。

多良木町に行ってみる?

熊本にある太田家について

太田家住宅、と書きましたが当然のことでこの太田家というのは人名のことを指しています。江戸時代のころ、まだ人吉藩として存在していたこの周辺地域で相良家の家臣として住んでいた一族のことで、主にこの多良木町に移り住んで農業と酒造業を営んでいたということが伝えられています。建築されたのは19世紀中ごろ、江戸時代末期ごろと考えられており、建物は寄棟造、茅葺の屋根を2ヵ所に折り曲げて、前後に突出部のある曲屋風の外観を持っていることが特徴となっています。『ざしき』と『あらけ』の部分と『だいどころ』・『どうじ』の部分の棟を平行にして、前後にずらして『なんど』の部分で繋いでできた寄棟造から発展した方の一つではないだろうかと予測されています。構造としては上屋と下屋が別れておらず、梁こそ太いが柱は細く作られており、小屋は扠首と棟束の併用で、壁は板壁で、谷樋には凝灰岩を使用している造りとなっています。屋根を折り曲げた型の民家のなかでは発展した携帯として考えられているため、ここ人吉球磨地方の鈎屋の民家の代表的なものとして、歴史的価値があると認定されています。

発展の契機としては人吉藩の家作りに関する帰省が関係していると考えられます。元々家作りについては相当厳しい条件が盛り込まれていた人吉藩においては、上級武士以外の住民は小規模な住宅での生活を強制されており、下級武士や足軽の場合には、何と梁間3間以上の住宅で暮らすことを固く禁じられていたのです。日本の昔を用意に連想できる社会縮図ですね、今でこそそういった規制にかんしてはあまり見られなくなりましたが、それでも根本的な図としてはこの頃から継続しているといえるでしょう。先ほど話した人吉藩で多く見られた住宅の方に関してはそういった制限が設けられていたことで守った上で住宅の部屋数と規模を拡大するために棟を広げるという手段に講じた、ということになるのです。

それまでの住宅には見られてなかった方として発展したきっかけについてはこういったそういった藩特有の、今で言うところの条例が関係したということが一番有力だといえるでしょう。いつの時代になっても人間を統率するのは確かに人間ですが、その人間を縛っているのもやはり法令や条例といった規定だということです。抑制されるものがなければ人というものは簡単に傍若無人に行動を起こすようになります。特にこの頃は人間間の上下関係というものを明確に示した時代です。何をするにしても、生活をするにしても、働くことに関しても、武士ではない人間達からすればそれ以外の人は最下層のヒエラルキーに位置しているということになります。そんな人たちは基本的に上に立っている人間を優先して、何事も美味しいところだけ持っていくことをしています。そうすることで秩序が守られている、そう感じている人が多かったのかもしれませんが、実際にはそんな弾圧に近い縛り付けを行なったことで圧迫というものを生み出すことになります。

結局のところ、こうした方の発展にしてもそこで暮らす住人たちがいかに条例に逆らわない範囲で、自分達の生活を良くしようとするために生み出された、知恵の一つだったということになるのかもしれない。

話題の情報

別の太田家住宅について

先ほど少し話しましたが、球磨地方は多良木町にある太田家住宅と同名の重要文化財が広島県にもあります。こちらが重要文化財として認定されたのは平成3年のこと、元々は地元で酒造業で繁栄していた商家が歴史的価値があるとして認定を受けたのです。こちらの建築物は瀬戸内海を代表するものとなっていまして、その価値が広島県内においても非常に重要なところに位置しているのです。こちらの建物の構造としては、主屋や保命酒醸造蔵などの9棟からなっていまして、敷地の四方は道路で囲まれています。

こちらの建物の建築年式としては、主屋が18世紀中期となっており、炊事場や南保命酒蔵が18世紀後半ごろに、北保命酒蔵が天明8年、西蔵が寛政元年、東保酒蔵が寛政7年、鎌谷・新蔵・北土蔵が19世紀前期頃に建築されているのです。時代的なもので見ていると年を追うごとにそれぞれの時代を象徴するようにして誕生しているので、なんども増改築を繰り返していることから考えるとそれだけ地元では名の知れた名家として活躍していたということになります。この時代から何度も自宅を繰り返して棟を増やしていけるというのは中々できることではないでしょう。

人吉藩のと比べると種類や系統こそ異なっていますが、それでも酒造という点においてどこか通じるところが少なからずあったのかもしれません。詳しくは調べられなかったので分かりませんが、もしかしたら先ほど話した太田家と同様に同系列の血族によるものだったのかもしれませんね。

熊本といえば…
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